コソボ

 

 

 

 

 

 

 

 コソボののどかな田園風景をつっきる道路のうえで、ドイツ人のカメラマンがあお向けに倒れて死んでいた。彼の服装はありきたりのカメラマン風で、どう考えてもこんなことになるなんて昨日の晩には想像すらしていなかったようにみえた。そんなふうに彼は死んでいた。 スロヴェニアの車なのだろうか、古めかしい黄色の車に乗った二人のセルビア人が撃ち殺されていた。一人はまだ生きていて何か言っていたが、その後死んだのだという。今日死ぬとは思わなかったかもしれないが、彼は自分が死ぬかもしれないことを知っていただろう。 ドイツ人のカメラマンは、別の世界から別の世界へ入りこんだのだと思う。報道カメラマンなら、戦場へおもむいて、あるいは自分は死ぬことになるかもしれないぐらいは思うにしろ、たぶん黄色い車のセルビア人とはちがう世界でそう思っていたにすぎない。

 

 孤立していく者には圧倒的な美しさがある。今だれもセルビア人の言うことを聞いてはいない。だからこそ私には彼らが崇高に感じられる。彼らの客観的なもののまるでなさそうな愛国心のまえに、NATOの理性はみすぼらしくみえる。世界が滅びなかったら、いずれNATOは正しかったということになるだろう。だがそうなればなるほど、正しくないものは美しく感じられる。 空爆がはじまった時、最初の映像のなかで爆撃の閃光がひらめいたときに、何の看板だったのだろう、“YUGO”という文字がくっきりと浮かびあがった。私はそれに胸を打たれた。その民族のすべての誇り、その何もかもが浮かびあがったように感じられた。私には決して決してありえないもの。彼らがよりどころにしてきたもの、持ちつづけてきたもの、それは破壊することはできないし、あの4文字は失われないだろう。
 セルビア人は何のために死んでいっているのか。私はそれがうらやましい。

 

 黄色い車のセルビア人は撃たれたとき、ひどく酔っていたのだという。それを聞いてもう一度ニュースをみたら、ほんとうに酔いどれているようだった。たくさん酒を飲んでいたら、撃たれてもあまり痛くないんじゃないかと考えたりした。傷口をアルコールがおさえてくれるだろう。

 

                             2006年3月、スロボダン.ミロシェビッチ死去。